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死生の価値観:急性期病院と在宅医療の違い

在宅医療と急性期病院での、最も大きな違いは「死生」に関する価値観だと思います。

急性期病院において「死生の価値観」とは、「一分一秒でも命を延ばすことが人の普遍的価値である」といった原則があり、そこで働く医師たちにはそれが共通の価値観となります。もちろん必ずしもそれだけではないことは彼らも知ってはいますが、急性期病院というものが成り立つためにはその共有化された価値観が絶対的に必要です。

たとえば、認知症のご老人が徘徊しているときに車に轢かれて救急病院に運ばれたとします。瀕死の重傷で今すぐ治療を開始しなければ助からないとします。このとき、本人に意識がないあるいはまともに返事することができない状態で、家族とも連絡が取れないとき、この共通価値観がないと、「こんなひどい認知症の老人にこれ以上つらい思いをさせる治療が必要なのか、人道的正しいのか」といった議論が起きかねません。

在宅医療はどうかというと、必ずしも長生きすることが価値観と考えるわけではなく、残された命での生活の質(QOL)と治療の困難さを天秤にかけ、「たとえ命が短くなってもQOLが上がる事が重要」という価値観なのです。

しかし一方で、在宅医療ではその天秤でどちらが重いかを医師が判断するわけですが、実はかなり”神”の領域に近い場合があります。これが最も我々在宅医療を行う者たちが苦悩することになります。在宅医療は古くて新しい分野であり、悩み多き仕事です。

自分の死期を悟り、身を清める

まだ病院で外科医として勤務をしていた20年近く前の話である。

 

若い頃に奥様を亡くされ、男手一つで2人の娘さんを育て上げられていた70代の方だった。大学時代の同期の医者から末期の膵癌で最後を看取ってほしいと紹介されてきた。当時は本人に病名を告知することほとんどなく、娘さんたちだけに伝えられていた。娘さんたちにとっては自分たちを苦労して育ててくれたお父さんということで、本当に献身的に支えておられた。

 

紹介されてきてからしばらくして腹水がたまり苦しいというので入院してもらい腹水穿刺などを行ない、一旦は軽快して退院された。

 

1ヶ月ぐらいしてから娘さんたちから、食事とも取れず、ほとんど動けなくなったとの連絡があった。私は「すぐ入院できるから病院に連れておいで」と話をした。かなり時間が経ってから彼は2人の娘さんに連れられて病院に来られたので、どうしたのかと思っていたところ、娘さんから「お父さんがどうしてもお風呂に入ってから病院に行きたい」と言って聞かなかったと。そのため2人の娘さんが両脇で抱えながら入浴させたそうだ。

 

そして、その患者さんは入院して3日後に亡くなられた。彼は知っていたのだ。自分が助からない病気であることを。そして今度の入院が最後の入院になることを。                                          彼は誰に告げられることなく、自分自身の死期を悟り、身を清めて病院に来たのだ。

 

男たるもの、かくありたいと思わされた、私の医者人生の中で、忘れられない患者さんの一人である。

人間の輝き

1年前の事務職員の募集に応募してきたA君。最終選考まで残ったが、経験者を優先して残念ながら不採用とした。自分のやりたいことが明確で、目に強い輝きがあったことに気持ちが惹かれた青年だった。

 

つい先日、再び増員のために事務職員を募集したところ再度A君の応募があり、今回は有力と思い会ってみた。前回の当院への応募後に別の企業に就職したがうまく行かなかった様子。しかし、A君の目の輝きが全く失われていたことに驚いた。わずか1年間でこれほどまでに変わってしまうものかと・・・

 

以前勤めていたコンサル会社のOBとも時々会う機会がある。やはりA君と同じように、一緒に働いていた頃のような医療界を変えていきたいという思いや輝きが失われている人もいる。

 

翻って、自分自身も思いやこだわりを持って始めた在宅医療の初心を忘れずやれているのか、自問自答する今日このごろである。