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死生の価値観:急性期病院と在宅医療の違い

在宅医療と急性期病院での、最も大きな違いは「死生」に関する価値観だと思います。

急性期病院において「死生の価値観」とは、「一分一秒でも命を延ばすことが人の普遍的価値である」といった原則があり、そこで働く医師たちにはそれが共通の価値観となります。もちろん必ずしもそれだけではないことは彼らも知ってはいますが、急性期病院というものが成り立つためにはその共有化された価値観が絶対的に必要です。

たとえば、認知症のご老人が徘徊しているときに車に轢かれて救急病院に運ばれたとします。瀕死の重傷で今すぐ治療を開始しなければ助からないとします。このとき、本人に意識がないあるいはまともに返事することができない状態で、家族とも連絡が取れないとき、この共通価値観がないと、「こんなひどい認知症の老人にこれ以上つらい思いをさせる治療が必要なのか、人道的正しいのか」といった議論が起きかねません。

在宅医療はどうかというと、必ずしも長生きすることが価値観と考えるわけではなく、残された命での生活の質(QOL)と治療の困難さを天秤にかけ、「たとえ命が短くなってもQOLが上がる事が重要」という価値観なのです。

しかし一方で、在宅医療ではその天秤でどちらが重いかを医師が判断するわけですが、実はかなり”神”の領域に近い場合があります。これが最も我々在宅医療を行う者たちが苦悩することになります。在宅医療は古くて新しい分野であり、悩み多き仕事です。

”外来にいる患者の数を推測して診療のスピードを変えなさい”

私が医師になって5~6年めの頃、母親の診療所の外来を週1回手伝っていました。               当時はまだ若かったのでとにかく外来患者をバンバンこなすことがいいこと、できる医者だと思っていました。ですから、とにかくスピード感を持って外来をやっていました。

 

そんなとき母に注意されました。                                               「机の上にあるカルテの数を見れば、外来にどれほど患者さんがいるか想像つくでしょ。患者さんの数が多くて待たされていれば早くしてほしいと思うから、スピードを上げてもいい。3分診療と文句を言う人もいるかも知れないけど、混んでるんだから仕方がないと納得はしてくれる。でも、すいてるときにロクに話も聞いてくれないとなると人は不満に思う。世間話でもいいから時間をとってあげることが大切よ」と。

 

そしてもう一つ、経営の観点からも教えられました。                                             「初めて診療所に来た患者さんが入り口の扉を開けてみて、待っている患者さんが溢れていると待たされると思って別のところに行ってしまう。一方で誰もいないとここは流行っていないヤブ医者じゃないかと思ってやはり入ってこない。適度に外来が混雑していることが新しい患者さんを掴むコツよ」

自分の死期を悟り、身を清める

まだ病院で外科医として勤務をしていた20年近く前の話である。

 

若い頃に奥様を亡くされ、男手一つで2人の娘さんを育て上げられていた70代の方だった。大学時代の同期の医者から末期の膵癌で最後を看取ってほしいと紹介されてきた。当時は本人に病名を告知することほとんどなく、娘さんたちだけに伝えられていた。娘さんたちにとっては自分たちを苦労して育ててくれたお父さんということで、本当に献身的に支えておられた。

 

紹介されてきてからしばらくして腹水がたまり苦しいというので入院してもらい腹水穿刺などを行ない、一旦は軽快して退院された。

 

1ヶ月ぐらいしてから娘さんたちから、食事とも取れず、ほとんど動けなくなったとの連絡があった。私は「すぐ入院できるから病院に連れておいで」と話をした。かなり時間が経ってから彼は2人の娘さんに連れられて病院に来られたので、どうしたのかと思っていたところ、娘さんから「お父さんがどうしてもお風呂に入ってから病院に行きたい」と言って聞かなかったと。そのため2人の娘さんが両脇で抱えながら入浴させたそうだ。

 

そして、その患者さんは入院して3日後に亡くなられた。彼は知っていたのだ。自分が助からない病気であることを。そして今度の入院が最後の入院になることを。                                          彼は誰に告げられることなく、自分自身の死期を悟り、身を清めて病院に来たのだ。

 

男たるもの、かくありたいと思わされた、私の医者人生の中で、忘れられない患者さんの一人である。

医者で蔵は建たない

医学生時代に女医であった母親に言われた言葉だ。

蔵が建つほどお金が儲かる仕事ではないということだ。そして同時に                          「医者は一生勉強しなければならない。手にしたお金があったらそれを自分の勉強に投資しなさい」とも言われた。つまり、医者は世の中の仕事としては多少なりともお金にはなるだろうが、蔵がたってしまうとすれば、それはお金の使い方に問題があるということであろう。

要するに、患者のため、世の中のためを考えたら、お金が貯まるはずがないということだろう。                                                                できの悪い息子のことを金のかかる私立医大を卒業させたのも”世のための投資”だとすれば、その投資で医者になった小生はそれに恥じない仕事をしなければならないということである。

賛否はあるだろうが、高須クリニックの院長が最近、しきりに社会事業に投資、寄付しているのも「医者で蔵は建たない」という意味であったらと思ったりもするのである。

人間の輝き

1年前の事務職員の募集に応募してきたA君。最終選考まで残ったが、経験者を優先して残念ながら不採用とした。自分のやりたいことが明確で、目に強い輝きがあったことに気持ちが惹かれた青年だった。

 

つい先日、再び増員のために事務職員を募集したところ再度A君の応募があり、今回は有力と思い会ってみた。前回の当院への応募後に別の企業に就職したがうまく行かなかった様子。しかし、A君の目の輝きが全く失われていたことに驚いた。わずか1年間でこれほどまでに変わってしまうものかと・・・

 

以前勤めていたコンサル会社のOBとも時々会う機会がある。やはりA君と同じように、一緒に働いていた頃のような医療界を変えていきたいという思いや輝きが失われている人もいる。

 

翻って、自分自身も思いやこだわりを持って始めた在宅医療の初心を忘れずやれているのか、自問自答する今日このごろである。

病気を見るな、患者を見ろ

「病気を見るな、患者を見ろ」                                                 これは多くの先人たちから常に言われる言葉ですが、本当に難しいことだとつくづく思います。 先日、ある老人ホームに入居していた90歳代後半の患者さんが白内障の手術をしてきました。施設の看護師さんやスタッフさんは「病院で視力が上がったと言われたみたいで、手術は成功したみたいです」と喜んでいる様子でした。                                                        ではとちょっと意地悪ですが質問してみました。「よく見えるようになって食事が美味しくなったですか」「テレビが見えるようになって、よく見ますか」「周りの人が見えるようになって、笑うようになりましたか」・・・・・答えは「変わりません」でした。 ある白内障の手術をしたことがあるご婦人にお話を聞いたことがあります。そのご婦人は非常に活発な方で、友だちとよく美術館に行ったり、麻雀をしたりされていたそうです。しかし、白内障になってだんだん外出をしなくなってしまいました。手術を医師に相談したこともあるそうですが、「まだ視力が0.4以上ある」と言われて経過観察となっていたそうです。いよいよ生活に支障が出るようになってから手術をされたそうです。たしかに手術をして見えるようにはなったそうですが、結局外出したり麻雀をしたりするような生活には戻られませんでした。                                                           つまり、ご高齢者は一旦生活活動範囲が小さくなってしまうと仮に病気が治ってもふたたび拡げることは難しいのだと思います。 実は以前コンサル会社にいた頃に白内障の治療について調べたことがあり、ここに大きな課題があることを知りました。と言うのは、白内障の客観的指標は視力になりがちです。しかし、視力と日常生活の活動性の範囲は必ずしも一致しないのです。 我々はつい視力など客観的指標に目が行きがちです。でも、実際に大切なことは日常生活にどう支障があるかということではないでしょうか。 人のことはついアラが見えてしまいますが、自分もどこかで同じことをしてしまっていないか・・・そんな自戒の念も込め書かせてもらいました。

生まれるも死にいくも、ひとの思いのなかにある

「人間は元来一人で生まれて 一人で死んでいくものである 」とは田山花袋の言葉だそうですが、これはまさに真実だと思います。しかし、生まれてくること、死んでいくことには、周りの多くの人の思いの中にあるのだと、最近つくづく思っています。

人が生まれるとき、確かに一人で生まれてきます。けれどもそこには両親や親族など多くの人の「思い」が存在するのではないでしょうか。                                                    そして死んでいく時も一人で逝くわけですが、そこには配偶者や子どもや友人などの多くの「思い」があるのだと思います。私たちは、生まれ方を自分で選ぶことができないように、死に方も自分の考えだけでは選べないものなのです。

在宅医療で死に行く方々を看取る時、本人の意志を尊重しながらも周りの家族の「思い」をどのように反映させるべきか、苦悩する毎日です。

”聴診器はおまじない”

私の体型をご存知のかたにはとても信じられないことかもしれませんが、子供の頃は非常に病弱でよく風邪を引いたり、インフルエンザになったりして学校を休んでいました。そういった時に、医師であるはずの母は一度も私に聴診器を当ててくれたことがありませんでした。

そんなある日、また風邪を引いて学校を休むことになったのですが、母はまた聴診器を当てませんでした。そこで、「なんで聴診器を当ててくれないの?」と聞いてみると、彼女の答えはなんと 「ああ、聴診器はおまじない。だからあなたにはあてなくてもいいの」と!

私が医者になって一緒に働いていた頃に、この話を母にしたところ、「そんなこと言ったかなあ」と笑っていました。しかし同時に、「おまじないは言いすぎかもしれないけど、聴診器を当てる前に、患者さんの呼吸状態や顔色や訴えを聞けば、聴診器を当てる前にどんな音がするか想像できなくてはダメよ。」と。さらに「でも、だからといって聴診器を当てないのはダメ。患者さんは聴診器を当ててもらうことで安心するんだから」とも。

なるほどと感心させられましたが、結局私には聴診器を当ててもらわなかったなあとも(笑)まあ考えて見れば、私も患者さんには必ず聴診器を当てますが、自分の息子に聴診器を当てたことはないなあ

人は本当に自宅で死にたいのか

私は訪問診療をやっていながら、「本当にひとは自宅で死にたいのか」という疑問を常々持っています。                                           世の中や政府が在宅に誘導する最大の理由は政府が行ったアンケート調査で6割以上の人が最期を自宅で過ごすことをのぞんでいるという結果からです。(よく在宅のほうが病院より医療費が安くなるからということをいう人がいますが、海外で在宅が進んでいる国では在宅のほうが医療費がかかるという結果がでており厚労省もそれは充分に知っています。)

 

けれども、自分自身を翻ってみて、どれだけ自宅にいたいものなのかということが実感できずにいます。一方で、こうした考えを持っていることで、患者さんへの療養方針に迷いやゆらぎがでていたのではないかと反省もしています。そして、この命題を考えた時に、こうした軸が乱れた状態をつづけていて本当に答えが出るとは思えず、もしかするとこのままでは自分が終末期になるまででないのではないかとも思われました。

 

では、どうすべきか。                                                          私の現時点での答えは、「徹底的に在宅にこだわってみる」ということだと思っています。                   「在宅では無理なんじゃないか」と思った時に、もう一度冷静になって「在宅がダメな理由はなにか」、「もっと何かをすれば在宅療養できるのではないか」ということを徹底的に考えることだと思っています。

医療現場こぼれ話 ~8~ 「舌出して。」

先輩医師から聞いた話

外来診察室で、30代前半の女医さんが、70代のおじいさんの診察をしていた時                               女医「じゃあAさん、舌出して」                                                おじいさん「え~、若い先生の前で恥ずかしいなあ」                                         女医「はあ、照れるような歳じゃないでしょ(笑)」                                                                するとおじいさんはおもむろに立ち上がり、ズボンと下着を下ろした。                                   女医「Aさん、なにしてるの!?」                                               おじいさん「えー、だって先生、『下出して』っていうから・・・」